日本の一般家庭に緑茶を飲む習慣が広まった3つの理由とは?
どのような経緯で皆が緑茶を飲むようになったのか
日本茶の現状
今ではあまりご家庭で茶葉から緑茶を急須で淹れて飲む、ということが少なくなり、昭和時代にたくさん全国へ緑茶を供給していた静岡県でも生産量が減っています。主に茶葉を捨てる、急須を洗う、急須のついた茶渋がとりずらくて億劫など、飲まない理由はいろいろあるようです。
むしろ外国の方が緑茶に興味を持ち、おいしい茶葉を探し求めているという事実はあるのですが、まだ日本のお茶生産量が増える大きな起爆剤とはなっていないと今現在は認識しています。
緑茶が日本に浸透した経緯 - AIのアンサー
「日本の一般家庭に緑茶が浸透していった理由は?」とMicrosoft社のAIであるCopilotに聞いてみたところ、以下のような答えが返ってきました。
"日本の一般家庭に緑茶が浸透していった理由は、興味深い歴史的背景があります。
平安時代に、遣唐僧(けんとうそう)である空海や最澄が中国からお茶をもたらしました。当時のお茶は「団茶(餅茶)」と呼ばれ、茶葉を団子や餅のように固め、それを粉末にして湯の中に入れて飲むスタイルでした。当時の唐(中国)は文明先進国であり、文人たちは風雅な茶を楽しんでいました。
しかし、煎茶が広く飲まれるようになったのは、栄西(ようさい)が宋(中国)から抹茶を持ち帰ったことから始まります。栄西は日本初の茶書『喫茶養生記』を書き、抹茶を二日酔いの薬として将軍源実朝に献上しました。実朝が気に入り、武士や禅僧の間で広く普及しました。この抹茶は、喫茶への関心を呼び覚まし、茶の湯の発展につながりました。
江戸時代には隠元禅師が煎茶を伝え、その後、売茶翁や文人たちによって煎茶の文化が発展しました。交通網の整備や大量生産により、煎茶は国内で広く普及し、日本人の生活に根付いていったのです。
このような背景から、日本の一般家庭に緑茶が浸透していったのです。”
江戸時代まではこのような経緯があったのでしょう。それでも、一般家庭でごく当たり前のように飲めるようになったのは、一説によると昭和に入ってからだそうです。
昭和に緑茶がほぼすべての家庭で飲まれるようになった3つの理由
これは、結論をいうと、魔法瓶と急須、静岡のやぶきた茶が生まれたからです。
ヨーロッパで発明された高価な魔法瓶を、象印社が値頃な価格で販売したのは昭和38年(1963年)です。さらに、われわれがずっと昔から使っていたと思いがちな、今のような急須が登場したのも同じ頃です。
それ以前に緑茶を淹れるためにどうしていたのかというと、土瓶を使っていました。土瓶に水を入れて沸かし、そこへお茶の葉を放り込んで成分が溶け出したのを飲んでいた。それが冷めたら、また沸かし直して再加熱していた。ただし、その土瓶に使われていたお茶の葉は、今の私たちが普段飲んでいるようなものではなく、いわゆる番茶といわれるものだったそうです。
緑茶で一般的な一煎目、二煎目、三煎目というお茶の淹れ方ができるのは、魔法瓶を使用して、いつでも使える、冷めないお湯があってはじめて可能なんですね。都度お湯を沸かしていたのでは、今以上に面倒に思ってしまうでしょう。
紅茶はお湯入れを何回もわけたりしないで一度に成分を出して飲み切ってしまう、あるいは茶葉をポッドに淹れたままにして最初の一杯を飲み、ポッド内で濃くなった紅茶をミルクティにしたりするのも、魔法瓶のようなものが家庭になかったからだそうです。
またおいしくて病気にも強く生産効率もよい「やぶきた」という品種の爆発的普及で、国内向けに安価で良質の茶葉が安定的に作られるようになった。
これら3つの理由で、緑茶が家庭で一般的に飲まれるようになったのです。